ミノリフーズの歩み

2003年に創業以来、進化を続けるミノリフーズ。
これまでの歩みをご紹介いたします。

起業したきっかけ

創業者(現・会長)の秋月純市が水産業に縁したきっかけは、スーパーの鮮魚コーナーでの仕事をしたことに始まります。
そこでの経験から、魚の商売のおもしろさに魅せられていきました。生鮮三品であり、身近な存在。
“旬”があり、相場が変動する。
鮮度が命であり、そのままの状態で商売ができる。

そして、ふるさとである石巻は、魚の一大産地でありました。
そこで秋月は、ふるさとの強みを活かし、水産業の世界で会社を設立することにしました。

ふるさとの豊かな海の恩恵を受けて

 

創業当初

2010慰安旅行

2010年 慰安旅行の際に撮影。

こうして設立されたミノリフーズでは、当初は従業員は社長を含めてたったの3人。
運送会社の事務所の片隅を借りて、細々とスタートしました。やがて経営が起動に乗ると、プレハブの事務所を設け、加工会社の協力のもと、ミノリフーズの商品を売り出していきました。
このように、仕入れを行い、加工を外注し、できた商品を販売するという形で運営をしていましたが、次第に加工の量が増えると、外注への費用も増大してきました。
そこで、工場を借りて、加工も自社で行っていけるようにしました。

従業員の数も20人弱まで増え、営業力も強くなってくると、当時の工場で製造できる量では、商品が足りなくなってきました。
もっと自分たちで商品を作れるようにと、自社工場の設立を目指すことになりました。

 

新たな工場

創業から8年経った2011年2月、石巻市魚町に新工場が設立されました。
獅子舞を呼んで、地元の演歌歌手を呼んで、関係者皆で祝った新社屋落成式は、どんちゃん騒ぎでした。

工場のつくりは鉄筋・木造のどちらかですが、当時の社長が選んだのは木造でした。
それは、今後お客様の要望に応えながら、自在に設備を変えていくことができるようにという考えからです。

しかし、そのたった1ヵ月後に、東北を震災が襲いました。
建ったばかりの新工場は、跡形もなく、なくなってしまったのです。

 

“プラス思考”で乗り越える

東日本大震災から4か月後。

震災から4ヶ月後に仕事を再開。与えられた環境でできることを探し、前を向き続けた。

直後は、PDCAのP(プラン)なんてない状態でのスタートでした。
とにかく仕事をしなくてはならないと、できることから始めました。
石巻で水揚げできない間は、塩釜で工場を借りて、魚は北海道や青森県の仕入れ先に助けてもらいました。
そして、新工場の全壊という状況も、プラス思考で乗り越えます。実は、新工場を建てたとき、設備に納得のいかない部分があったのでした。
「もっとここの造りは広いほうが作業しやすいな」とか、「ここの動線はスムーズにしたいな」といった考えが浮かんできたのです。流されてしまった新工場。それは、パワーアップして再出発できるチャンスでもありました。
石巻の復興が進むと、生産ラインをより効率的にした造りで工場を再建することで、
震災後には以前よりも売り上げを伸ばすことができました。

しかしその後も、原発事故の影響による風評被害にも苦しみました。毎日、放射線量の測定を行う努力を続けましたが、それでも売り上げは伸び悩みました。

このときも、仕入れ先の北海道、青森県の方々に大変お世話になりました。
そこから魚を仕入れ、それを弊社で加工して出荷することで、なんとか運営を続けていくことができるようになったのです。そこでできた繋がりは、今でも大切にしています。

 

さらに”人”を大切にし、進化するミノリフーズ

2019年に、新社長として渋田大和が就任してからも、ミノリフーズは進化し続けます。
水産業界に新たな風を起こし、働きやすい会社作りに取り組んでいます。大きな会社にするにしても、仕事ができなくてはならない。
仕事をしていくためにも、人がいなくてはならない。だからこそ、従業員を大切に、一人ひとりが満足して仕事ができるようにしよう。
そのために会社の内側から改善していこう。人が生き生きと働き、活躍していくことで、会社を盛り上げていく。
人を大切にするミノリフーズの経営に、より一層磨きをかけています。そして震災も乗り越えたプラス思考は、コロナ禍の中でも屈しません。

2020年。工場の前で集合写真。

ミノリフーズが”人”を大切にしてきたからこそ、世代が変わっても受け継がれています。

これからもピンチをチャンスに変え、より良い商品をお届けするため、挑戦を続けます。